信長の居館 庭・池跡
岐阜市稲葉山(金華山)
織田信長が斉藤龍興を破り、稲葉山城に入ったのは1567年と言われている。この時、旧地名美濃国井ノ口を岐阜と改めている。龍興は斎藤道三の長男義龍の子で道三の孫に当たる。信長の正妻は道三の娘である。
岐阜城は険しい稲葉山の山頂にある。その麓、現在はロープウェイの乗降口に信長の居館はあったようだ。
信長の居館跡の発掘調査は1984年に始まっている。写真は発掘の状況を説明した資料である。資料の右下が館への入り口に当り、右側に居館があったようだ。今会の調査は左側の庭に当たる部分の調査が進み、その説明会があった。説明会の日は3月1日(土)で奇しくも私の高齢者入りの誕生日であり、気合が一段と入ったのは高齢者のためかも知れない。
写真は稲葉山(現金華山)を北側から仰ぎ見たものである。急峻な山の頂上に稲葉山城(岐阜城)はあった。右下に見えるのは三重塔で1917年に旧長良橋(4代目)の材木を使用して建てられたものである。信長の居館はこの右下の山間に存在していたようだ。
写真は稲葉山の三条にある岐阜城である。現在はロープウェイが施設されており用意に登ることができるが難攻不落の城だったようだ。稲葉山に砦らしきものが築かれたのは1200年頃に遡る。1533年に斎藤道三が城主になってから表舞台に表れる。その後、道三の子義龍が城主となり道三は1556年にその義龍と戦い、死去する。信長が義龍の子龍興を破り入城したのは1567年のことである。関ヶ原の戦いの時は織田信秀(信長の嫡男織田信忠の嫡男 幼名三法師)が城主だったが西軍として戦い破れた。その後、1601年に廃城となった。
城は1910年に再建されたが消失。現在の城は1956年のもので鉄筋コンクリート製である。
1601年には異常になる時天守などが移された加納城(岐阜市内)の図面・古文書を参考に建築されている。
饗応のための庭・池・滝
下から見上げた池があったところである。位置的には左上に三重塔がある。居館跡はこの右側に当たる。居館との間は山間から流れ出る小川で分けられていたようだ。前に見る、この位置には3.5mの高さの石垣が真っ直ぐ東西(写真では横方向)に34m程築かれ、その上に池があったようだ。見える巨岩は山を構成する岩盤であるがここに2つの滝が作られていたようだ(青いテープで示されている)。近くで見ると確かに水の流れで岩が侵食されている。
居館跡から見る池跡である。居館からは小川を渡る橋が掛けられていた。橋を渡った位置には饗応のための館が幾つかあったようである。池の滝水の落ちる位置には川原石が敷き詰められている。池の所々に景石が見える。
発掘された遺跡
写真は池の周りを囲むように築かれていた石垣跡である。池の北と西側から発掘されている。発掘された時、石垣の上部は崩れ流されて2mほどしかなかったが3.5mの高さがあったと推測されている。
池への道は居館からの橋の他、右下の位置からも小川を渡り上がることが出来るようになっていたようだ。写真は池に上るための石段である。この石段に至る道は小川を渡った後、居館からの橋を潜り抜けるように構成されている。来訪者は居館から橋を渡ったと思える。
巨大な岩盤とここに流れ落ちる2本の滝、そして景石を配する巨大な池、来訪者は度肝を抜かれたことだろう。信長の”天下布武”への意気込みが感じられた1日だった。